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そらを自由に飛びたいな

おっさんのぼやきです。

保護と略奪の違いについて。

ナコルルが強すぎてムカつく人たちによるアイヌヘイトスピーチ - はてこはときどき外に出る

アイヌと差別」がいつ頃の話なのか知らん人は多い気がする。ちなみに『北海道旧土人保護法』が廃止されたのは1997年。ほんの20年ほど前まで民族侮辱としか思えないこの法律が存在してました。

2016/09/07 16:05


「北海道旧土人保護法」が出来たのは明治32年。

大日本帝国憲法が発布されたのが明治22年なので、日本が欧米列強と並ぶべくモリモリと富国強兵に勤しんでいた頃だ。

そんな頃に、この保護法は出来た。

なぜできたのか。

本州からの北海道移民が急増したので「和人(本州の人間)がアイヌ民を騙して土地や資産を奪い取らぬように、日本国が保護する」という名目だそうだ。

 

ちなみに『土人』という言葉は、現在でこそ差別用語であるが、当時は「地元民」ぐらいの軽い感覚で使われていた。つまり、「本州から来た新土人」と「元からいた旧土人」という意味なので、差別的な意味は当時はなかった、という説がある。

ただ、人を指して『旧』って呼ぶのは、どうなんですかね。

『原土人』じゃダメだったんでしょうか。教えて漱石先生!

 

本題に戻る。

 

保護法前のアイヌ民族には日本戸籍がなかった。

そして、北海道の土地は日本のものであった。つまり、アイヌ人が何を言おうと、日本国が「この土地は誰々のものである」と権利書を発行して権利所有者が銃をぶっぱなせば、アイヌの人たちは追い出されたのだ。

ここまでむちゃくちゃなやり口は少なかったと思う(信じたい)けれど、アイヌの漁場だった場所にニシン御殿がどかどか建ってるのを見ると、色々考えさせられます。

 

ちなみに条文については、北海道の公式サイトに載ってます。 

北海道旧土人保護法 | 環境生活部アイヌ政策推進室

 

見出しだけ拾ってみます。

[土地の無償交付]

[所有権の制限]

[没収]

[保護施設]

[費用の負担]

[共有財産の管理]

 

この法律が一部で「アイヌ利権だ」と言われているのは、主に「土地の無償交付」と「保護施設」の条文があるからです。

タダで土地と家が入るんだから、ええ思いしとるやないか、と。

 

ただ、上記サイトにもある通り、価値の高い土地は和人が所有し、価値のない土地、あるいは開拓の難しい土地をアイヌ民族に与えられました。

その規模、最大で15000坪です。ピンとこない方には東京ドーム(建築面積14000坪)一つ分ぐらいだと思ってください。直径約250m。

その規模の土地が、1世帯に与えられました。わー、広い広いー。

ただし、15年間で「開拓できてない」とみなされた場合は没収されます。うわぁ、広い広い!

さらに、それを開拓するアイヌ民族のモットーは『森と共に生きる』です。

 

まあ、アイヌの自然崇拝の象徴である森を自分たちで破壊せよ、という踏み絵だったんでしょうなあ。モチベーションも上がらず、開拓技術もないので、大半は二束三文で和民に貸し付けたそうです。

そして、「保護施設」は単なるアパルトヘイト

所有権や財産は、必要だったら北海道知事に相談してね、という内容です。

そんなに暇なのか、北海道知事!(暇じゃないので無視された)

 

だから、物を持ちたくても、子に財産を残したくても残せなかったんです。

ただ暮らし、ただ子を産んで、ただ生きて、ただ死ぬ。

違う民族同士、一緒に暮らすための政策とされてきましたが、実際はただ、自由に生きる権利と自由に死ぬ権利を奪っただけです。

 

この手の「保護」と名乗る「略奪」が自分は大嫌いです。

 

最後に。

今回の話題となったナコルルが初めて登場したサムライスピリッツがゲームセンターに登場したのは1993年です。

キャラクターデザイナーが「ぜひアイヌの女性を!」と込めた情熱がプレイヤーにも通じたのか、人気キャラクターとなり、一時は、三鷹市の水道部および年金課のポスターにも採用されて、ポスターの盗難事件なども起こりました。

 

ナコルルに現実のアイヌ民族の方々が抗議したかどうかは分かりません。

でも、当時のSNKアイヌ民族の方が抗議すれば、ナコルルはとっくにいなくなってると思うんですよね。清楚なイメージの民族衣装なんて、アジア一円だけでも山ほどありますので。

今でもゲームのキャラクターとしてナコルルがファンから愛されている、ということは、アイヌの人たちも認めてくれてるんじゃないかなー、そうであったら嬉しいなあ、とゲームファンの一人として思います。

 

そして、ナコルルも異世界チームとして登場する『SNKのお祭りゲーム!』ことキングオブファイターズの最新作はこちらです!


こないだちょっと触りましたけど、かなり楽しかったです。 

THE KING OF FIGHTERS XIV

THE KING OF FIGHTERS XIV

 

 

お金をもらうのはお金をもらう側のお仕事。

例えば、蹴っ飛ばせば缶ジュースを出してくれる自動販売機があったとする。

いい具合に、ある一定の角度で、ここぞ、という場所を蹴っ飛ばす。

すると、ガランガランと2,3本ジュースを出してくれる。

 

さて、この自動販売機にお金をいれますか。

 

道徳に照らし合わせれば「タダで物をもらうのはよくない」ので、お金を払うのが正しいこととされます。

なのでまじめな人は、きちんとお金をいれるでしょう。

しかし、そんな不具合のある機械ですからお釣りを間違えるかもしれません。

500円玉の代わりに50円玉を出して「お釣り払いましたよ」と表情ひとつ変えずに言うかもしれません。なんせ自販機ですから。

 

そうなった時は、自販機の管理をしている人に連絡を取るのが筋です。

そして「これこれこういう事情でお釣りを間違われたんだ」と説明するのが筋でしょう。

しかし、それが本当かどうかは、どうやって誰が判断するんでしょうか。

管理人がまじめな方であれば「すいませんすいません」と450円を払ってくれるでしょう。

 

はー、よかったよかった。

本当に?

 

管理人はまじめな方ですから、自販機の中のお金を計算して、勘定が合わないことにも気づくはずです。

不正されていることに気づいた管理人はどうすればいいんでしょうか。

自販機を替える?

替えるにもお金がかかります。

そして、替えたあとの自販機が正しく動くかどうかの保証って誰がしてくれるんでしょうか。

そうだ、自販機メーカーに文句を言えばいい。

 

というわけで、管理人は自販機メーカーに苦情を言います。

「これこれこういう事情で、これでは商売にならない。交換してくれ」と。

自販機メーカーの人がまじめな方であれば、「すいませんすいません」と自販機を引き取って、新しいものを設置します。

 

あー、よかったよかった。

本当に?

 

自販機メーカーの人はまじめですから、何が悪かったのかと引き取った自販機を調べます。

そして、無数の蹴り跡に気づきます。

「蹴ったから壊れたのでは?」

とはいえ、誰が蹴ったのかは分かりません。

仕方がないので、自販機メーカーの人は、次作る自販機の売値にそっくりそのまま蹴って壊れた自販機の代金も足しました。

 

これで、全員が損をせず終わりました。

めでたしめでたし。

これから機械が人から奪っていくもの

そう、現在、収入ランキングで上位に入っているような頭脳労働は数年後には無くなっているだろう、と自分も思う。

コンサルも市場予想も『既存の情報から未来予想する』なのでコンピュータの得意分野だ。ミサイルの着地点を計算するのと理屈は変わらない。

残る頭脳労働は、機械によるメリットが得られにくい、デザインや娯楽、感性に訴えるような労働が大半になるだろう。

「時限爆弾がある。赤と白、どちらかの線を切ればストップできる」という場面で、失敗して爆発させた方が面白いのか、それともハッピーエンドの方が面白いのか。
『商業的にウケる方』なら正解は決まっている。
しかし「刺さってほしい人物の心にどちらがより刺さるか」は、人の数だけある。

そういう意味で、作家業はなくなることはないだろう、と思っている。
チープで陳腐でチンケな言い方をすれば「売上は重要であるが、正義ではない」だ。


■カウンセリングってどうなんだろう。

『カウンセリング』と『アドバイス』に一線を引いた歴史的な偉人にロジャースさんという方がおられまして。
(精神や心理分野ではフロイトユングに次いで名前が出てくる有名人)

ロジャーズ クライエント中心療法 新版 --カウンセリングの核心を学ぶ

ロジャーズ クライエント中心療法 新版 --カウンセリングの核心を学ぶ

 

 ロジャース曰く、
「先入観を持たず、相手の価値観を受け止める(受容)」
「相手の立場になって同じ感情を有する(共感)」
「自分がそのことに矛盾を感じない(自己一致)」
この三つが出来れば、あとは相手が勝手に話して、勝手に自己解決して満足して帰っていくのだそうです。
(ただし、実践はとてつもなく難しいです)

えらそーな助言もアドバイスも不要だ、という話です。

とはいえ「自己解決して満足して帰る。帰るが、それがいつの話とは言っていない」というわけでして、それだけだと長期化して社会生活に影響が出過ぎる、というわけで、現実には、それを促進する練習(訓練)を組み合わせて使っている現場が多いようです。

いかにも人間対人間、という感じがしますね。

■それじゃ、ロボには無理なのでは?

そうでもないんじゃないかなー、と自分は思っています。
先ほど挙げたロジャースさんの理屈が難しいのは、聞き手が人間だからです。

人間同士で『先入観を持たない』というのはまず不可能です。
なので、カウンセラーは『自身の先入観を自覚して、それを差し引く』という訓練をしますが、それだって完璧ではないです。

しかしロボなら先入観を物理的に消すことができます。
千時間以上かけて育てたキャラクターだって、リセットひとつで「あなたの名前を教えてください」の状態まで戻すことが可能です。

そして、子どもが人形に悩みを打ち明けるように、無機物になら人は安心して秘密をさらけ出すことができます。
(その無機物がインターネットに接続されてれば話は別ですが)

 

人間が機械を擬人化してしまうことはよくありますし、ペットロボが動かなくなって葬式挙げた、なんて話もあります。

ロボが相手であるデメリットはあまり無いと思います。

(ロボっぽい見た目がダメならオリエンタル工業に頑張ってもらえばよろしい)


■ロボに得意な仕事は『正解を出す』だけではない。

感性に訴えるような『解が複数ある』ものは苦手です。
しかし、『解を出さない』なら出来ます。
むしろ、体力の限界がある人間よりも根気よく話を聞いてくれるはずです。

日本では、広まりかけているカウンセラーという仕事ですが、案外、その終わりは早いかもしれません。
なんせ、ハードウェアの制約としては「マイクがPCにつながってること」だけなんですから。


■蛇足。

100年前の産業革命で肉体労働が機械に奪われたように、そろそろ頭脳労働が機械に奪われる日が来た。じゃあ、その先は? - orangestarの雑記

肉体労働を効率化はさせたけど言うほど仕事を奪ったか?

2016/08/05 11:24

自分も同じ感覚ですが、奪われた後の世代ってこういう感覚になってしまうんですよね。

アメリカの逸話で、ジョンヘンリーさんという方がいます。

ジョン・ヘンリー - Wikipedia

肉体労働の仕事を守るために、作業機械と対決して、勝ったけど死んじゃった、という伝説的な方です。
興味ある方はどうぞ。

「行き先は?」「未来さ!」だった頃の物語。

映画好きの方がTwitterで「最高!」とコメントしてたので、見てきました。

ネタバレありで感想を書くので、最初に全体的な感想を。

(「続きを読む」ってやつのやり方を知らない)

 

この映画は、欠点をあげればたくさんあるけど、それを差っ引いても、琴線にざっくざく刺さりました。どれぐらい自分の琴線に刺さったかというと、帰りの高速道路の分岐を二回間違えて、「道路作ったやつ、<普段言わないような罵声>」と車の中で叫んだぐらい刺さりました。

今、帰ってきてこれを書いてますが、田舎の閉塞感に押しつぶされそうだった頃の感情を映画に引っ張りだされたまま、キーボードを叩いてます。

 

■あらすじ

公式サイトに動画あるから、それ見て。

 

■とりあえず、兄が最高。

大学中退して、一日中ハッパ吸ってて、音楽に詳しい。

弟である主人公が「バンドを組んだ」といえば、「コピーバンドはやめろ」と助言をし、「MVを撮った」といえば「カメラマンはゴミだが、それ以外はいい」と褒める。

誰も彼も、主人公の両親でさえ、主人公に一切関心を払わないし、主人公の友人たちも音楽を通じてしか主人公に興味を払わない、皆が自分のことで必死になっている世界の中で、兄だけは主人公の話を聞く。

兄自身、未来を閉ざされた経験があり、今もなお閉ざされてる真っ最中で、閉塞感と闘いながら、主人公が抜けだそうとしているのを助ける。

自分のギターを使って、弟が閉じられた世界から飛び出そうとしていることに、激しい嫉妬を覚えながら、それでも「ロンドンに今から?よし送ってやる」と笑顔で送り出す。

最高にかっこいい。

 

■ここからは自分語り。

私もかつて、同じような閉塞感を味わってたことがある。

見渡す限りの日本海、振り向けば、見渡す限りの山。

外へ出る道は細く、その先は誰も知らない。

 

「コンピュータを勉強する? やめとけよ。あんなの相当頭よくないと出来ないぞ」

「パソコンを買う?どこにそんなの売ってるの?」

「詩!? 詩ってあのポエムとかの? 嘘だろ、恥ずかしくないのか」

「ゲームを作る? そんなの仕事になるわけないだろ」

「小説・・・? お前はいったい何がやりたいんだ? だいたいああいうのは賢い人がやるもんだぞ」

 

私が興味をもったものは、ことごとくバカにされた。

いや、私がバカだと思われていた。事実、学校の成績はずっと低空飛行だった。

 

高校1年、詩の全国コンクールで入賞した時、これで世界が開けると思った。

何がどう開けるのかは分からないけれど、世界にも通用する企業の名前がついたコンクールで、二位にあたる賞だった。

『全国で二位』というのは、当時の私にとって、とても誇らしいものだったし、なんなら、総理大臣は無理でも、ナントカ大臣あたりが挨拶しにくるんじゃないかと本気で思ってた。

両親に表彰状を見せた時「へえ、おめでとう。じゃあ、今日はエビを20パック並べて」と言われた。

薄汚れた白いスキーウェアを着て、長靴を履き、表彰状を自慢気に掲げる私は、真冬に氷水のバケツからエビを取り出して、氷の上に並べ直しながら、「もうすぐこの生活も終わる」と考えた。そしたら、エビ係は兄の仕事になる、もうしわけないけど、兄は詩を書けないんだから仕方無い。

当然、そんな生活を終わらなかった。翌月も同じ生活をし、その翌月も、冬が終わり、春がきて、夏が過ぎる頃に、コンクールの募集ポスターが貼られ、私は気づいた。

 

「そうか、一回だけだからマグレだと思われたのかもしれない」

 

もう一度、応募した。そしてまた入賞した。今度は三位だった。

去年の結果も見たけれど、連続入賞は私だけだった。

これでどうだ! と胸を張って、エビを並べた。かじかんで感覚の無くなった指さきを吐く息で暖めながら「エビどうですかー」と声を挙げ、(いつ頃呼ばれるのだろうか)と考えた。

 

また、夏がきて、コンクールのポスターが貼られた時、私は高校3年生だった。

初めて「ダメかもしれない」と思った。

それがよくなかったのかもしれない。高校最後のコンクールは、入賞無しで終わった。

けれど、参加賞として、『コンクールの入賞者だけで組んだバンドが作った楽曲』のカセットテープが送られてきた。

 

もし、諦めなければ、私がその一人に選ばれていたのだろうか、と考えた。

きっとそうなのだろう。

選ばれたメンバーが通っている学校は、全て首都圏だったけれど、偶然なのだろう。

呼んでさえもらえれば、お金なんていらなかったし、親も家族もいつだって捨てる覚悟は出来ていた。けれど、呼ばれなかった。

 

■私は掛け値なしにバカだった。

 

なぜ、バカだったのか。

『呼ばれる』のを待ってたからだ。

なぜ、誰にも期待できない環境で育ちながら、見たこともない人に期待をしたのか。

 

■あんな兄が欲しかったけど、いなかった。

 

「パソコン? 古いのでよかったら探してくるよ。勉強は分からない所があったら聞きにくるといい」

「詩か。良し悪しは分からんが、書いてて楽しいなら、良いことだ」

「ゲームを作りたいのか。いい時代に生まれたな。今ならタダで環境作れるぞ」

「小説? 言っとくが私は小説にはちょっとうるさいぞ。でも、けなしたりしないから書けたり、書くのに迷ったら言いに来い」

 

だから、代わりに自分が言うようにしてる。

そして、自分もまだ諦めたわけではない。

 

■そう簡単に「おじさんも昔は」なんて話にしてたまるか。

 

そんな風に思わされた映画でした。

 

唐揚げ串が硬かった。

近所のスーパーは23時で閉まる。

なので23時を越えて帰宅した時は、駅前のコンビニに行くしかない。

とはいえ、夜も遅いし、ガッツリ食べるわけにもいかない。

 

野菜サラダと、唐揚げ串を買った。

家に帰って、野菜サラダを皿に盛り、ドレッシングをかけて、唐揚げ串を串から外して盛った。

唐揚げサラダだ。

 

さっそく唐揚げを一口、かじってみると硬かった。

肉が、じゃない。

衣が、だ。

油で揚げたあと、コンビニ店頭のホットケースでさんざん温められて水分が飛び、カラッカラになった硬さだ。

おいしくない。

疲れてるし、明日もきついし、寝る前にやらなきゃいけないことだってある。

なのに、おいしくない。

 

それで、嫌になった。

 

夜遅くまで仕事してるのはいい。別に嫌いじゃないから。

勉強してんのだって、休日が潰れるのだって、まあ構わん。どうせ2,3年の話だし。

 

でも、だ!

何が悲しくて、35歳にもなって、カッサカサのカッパカパの味気もない唐揚げ串を食わねばならんのだ!!

そんなもん廃棄しろよ!

マクドを見習え、マクドを!!

 

あー、腹がたつ!!

 

というわけで、深夜になってもカッパカパの唐揚げ串を食わなくても済む街に引っ越します。

具体的な場所や日程は書きませんが、そのうち、気づいたら引っ越ししてます。

 

ふふふ、次は君の住む町にいくかもしれない!(ドーン)

 

そういや、こんな感じのホラー漫画ってなくなっちゃいましたね。

血液型占いもスピリチュアルもなくならないのになあ。

 

魅力あるコンテンツだけが廃れていく(ただの趣味)

 

クルンボルツさんのやつ。

人生は運よりも、運の運用方法に大きく左右される - 分裂勘違い君劇場の別館

クルンボルツ先生が「いつ運が転がりこんでくるか分からんのだから、キャリアプランなんて無駄だ、幸せのために全てを捨てる覚悟を持て」という説を唱えてるので、興味あればどうぞ。

2016/07/03 10:00


 とコメントで書いた説は、この本のことです。

その幸運は偶然ではないんです!

その幸運は偶然ではないんです!

 

 

日本で「キャリア」といえば、未だに「エリートクラス」を意味する言葉ですが、アメリカでは元々の「career(経歴)」という意味で、『(誰かの)子ども』から始まる社会における役割を指します。

日本でも中学生が地域の仕事を体験学習するように、若い内から『将来の自分の役割』を意識するように教育する「キャリア教育」が進められています。

 

『将来なりたいものを見つけ、それに向けて、計画を立てて、一歩ずつ着実に向かう』

 

日本の親御さんが、子どもに期待する理想像のひとつがコレです。

 

じゃあ、例えば「高校在学中だけど、彼氏とセックスしたら子どもができちゃった」と娘が言ったらどうなるんでしょう。

あるいは「大学に行かずにEXILEに入る予定だったけど、4,5年経っても、EXILEのオーディションに受からない」と息子が言い出せばどうなるでしょう。

 

ほかにもこんなのがあります。

・30までに結婚する予定だったけど、できてない

・20までに恋人を作る予定だったけど、できてない

・25までに年収500超える以下同文

・50までに貯金以下同文

 

プラン通りに行かないことなんて山ほどある。

 

それに対し、キャリア教育を、長年研究してきたクルンボルツさんは「もしや計画立てても意味がないのでは」と仮説を打ち出し、実際に、「今の人生に満足している人」たちにインタビューをして回りました。

その結果が、紹介した本に記されています。

 

18歳で思い描いた10年後の姿にたどり着ける人は滅多にいません。

けれど、辿りつけなかった人たちが不幸せとは限らない。

 

アンパンマンの歌にもあります。

「君は何が幸せ? 何をして喜ぶ?」

そんなもん、『それ』が目の前にくるまで、誰も分かりません。

iPhoneを触るまで、誰一人としてiPhoneの便利さに気づかなかったように。

 

そのiPhoneに、幸せの予感を感じたのなら、翌日が仕事であっても、アップルストアの徹夜列に並んだ方がいい。

そういう話です。

ビッグウェーブには乗った方がいい。

例え、自分以外の人にビッグウェーブが見えてなかったとしても、自分に見えているなら、それはビッグウェーブなんです。

 

ただ、モヒカンにするのはお薦めしないです。会議室に入る時につっかえると思うので。

ふわふわ系とガチガチ系。

メンタルヘルスの授業にて、講師の方が理論を説明する時に「この理論はフワフワ系なので、企業ウケはしません。あっちの方がガチガチ系なのでウケがいいです。フワフワ系はもっと時間に余裕のある時向けですね、場面によって使い分けてください」みたいな説明をしてまして。

その表現がしっくりくるので、面白い表現をするものだ、と感心してます。

 

んで、人に何かを伝えるお仕事の内、フワフワ系の最たるものである『小説家』を選んでしまった若者たちの物語がこちらになります。 

 

■小説の神様

小説の神様 (講談社タイガ)

小説の神様 (講談社タイガ)

 

売れない作家が、売れっ子作家と出会って、なんやかんやする、という話です。

作品中、ずっと語られているのは「何のために小説を書くのか」ということ。

お金?チヤホヤ?勝敗?誰かのため?自分のため?

 

自分も、遠回り中ですが作家志望(一応)なので、「何のために」ということを読んでいて考えさせられました。

自分の場合は、そもそも、自分の生活に満足がいってない(現在進行形)ので、「何度でもやり直せるはず」と願ってますし、思ってます。

 

ただ、じゃあ、実際に、自分の書いた小説を読んで「そうだね、やり直せるね!」と非行少年が更生(って言い方嫌いですが)したり、50半ばのオッサンが「天文学やりたかった」つって大学に入るか、っていうと、そんなことはまずないわけです。

この辺の現実に及ぼす影響力がゆるいことを指してフワフワ系と自分は呼んでます。

そして、「小説の神様」の主人公もそのことを指摘します。

「だから書く意味なんてない!売れない、読まれない小説に存在意義はない」と。

 

■じゃあ、小説ってどういうものなんだ? 本当に無意味なのか?

という辺りが「小説の神様」の肝の部分です。

興味出たら、ぜひどうぞ。

 

■ここからは自分の話。

自分も、今は小説を書いてないです。

なぜ、書いてないのか。

『無責任』だと思ったからです。

 

以前、某作家さんから、こんな話を聞きました。

「作家志望の人にプロ作家が『諦めなければ夢は叶う』とか『書きたいものを書き続ければいつかは』なんて言うのは、無責任だ。それでたくさんの人が夢に潰された」

 

「好きなことなら続ければいい」なんてことを他人に軽々しく言えるのは、好きなことに対して才能があったからだ。でも、世の中の人のほとんどの人には、才能がない。才能がなくても好きなものにしがみついて、苦しみながら書いてる、と。

 

さて。

だとしたら、自分が小説に込めている「何度でもやり直せる」という気持ちは、無責任なのではなかろうか。

やり方も指示せず、方法も示唆せず、ヒントも出さず、ただ、声だけ大きくして「やり直せる!」と言って、誰がそれを信じるのだろうか。

また、それを信じた人が、本当に報われるのだろうか。

 

そう思ったら、足りない所が見えました。

自分には「何度でもやり直せる」と言い続けるだけの体力も、覚悟も、ノウハウも、けこう色んなものが足りてなかったです。

 

なので、今は勉強をしています。

 

■一種の自助グループ

自分もあまり人に誇れる経歴などはございませんし、日陰か日向かで言えば、日陰の人間です。

 

でも、日陰は日陰で楽しく生きていけるんだぜー、ということを体現できたら、その時は無責任じゃないものを伝えられるのでは、と思ってます。

 

まー、「書けない言い訳」かもしれませんが。

 

■あと、アレだ。

小説について、話し合える相手がいなくなったのもデカイ。

だから「小説の神様」の環境は、ほんと羨ましい。

ラノベかよ!

人間書けてないぞ!