そらを自由に飛びたいな

おっさんのぼやきです。

慣れを取っ払う

右脳左脳という話を自分はよく知らないので、その点はさておき。
「いつもと違うやり方をする」というのは、効果的だと思う。
 
日頃、便利であったとしてもそれに慣れてしまえばゼロになる。
慣れを取っ払って、マイナスの不便にしてしまえば、便利がプラスであったことを再発見することができる。
 
真夜中の停電のあとに、蛍光灯がつくありがたみを感じたり。
雨が続いたあとの晴れの日に、気持ち良さを感じたり。
メチャメチャに厳しい人たちがふいに見せたやさしさのせいだったり。
 
慣れを取っ払うことで、いつも新鮮な気持ちになる。
というのは、ありえる話だと思っている。

エンジニア立ち居振舞い:文系マインドもロジックの内。

お題「エンジニア立ち居振舞い」

 

割と昔から気を付けてる所。

自動化を推進する立場だと、「やる気でカバー!」とか「根性デバッグ」を低く見積もりがちだけど、自動化するまではそういう人たちに頼らざるをえない。

 

織田信長豊臣秀吉をリスペクトできて、旧世代の遺物をリスペクトできない理由はなんぞや。秘伝のタレ作りはNGだけど、作らざるをえなかった事情を考慮して作った人をリスペクトしよう。

 

その方が、商売まるく収まりやすい気がする。という経験則。

Audibleで落語「代書屋」を聞いたこと。

今さらですが、Audibleです。
amazonのサービスで「本を音読したものを配信する」みたいなサービスでして、『目を疲れさせたくない』みたいな人にはうってつけのサービスです。

そんな中に落語があります。
といっても、落語の台本を声優さんが音読といったトンチンカンなものではなく、落語CDをそのまま配信してるんです。

これが結構ありがたい。

「本を音読」というサービスコンセプトに近いこともあって、配信数も結構多いです。
どのぐらいあるかっていうと、今「落語・講談」で絞り込んでみたところ、1ページに24作品紹介されてまして、それが14ページまであるようです。
だから、計算するってーと、、、まあ、配信数も結構多いです。

私が聞いた「代書屋」は、立川談志さんが演じたものでした。
といっても、立川談志さんは、すでに亡くなっておりますので、昔の講演を収録したものです。最近流行りの初音ミクみたいなシロモノではありませんので、そこはご安心を。
あのべらんめぇ口調を機械音声で調整する、となると、墓から本人引っ張り出してきた方が簡単でしょうねえ。

そういや、数年前に『鬼武者』というテレビゲームがありまして、その作中で、若かりし頃の松田優作さんをそっくり再現してみせた、ってのがありましたが、未だに、あれで誰が喜んだのかナゾのままです。だって、買う客の大半は若者ですから、松田優作さんなんて知りもしないんですよ。
若い人には「松田龍平さんのお父さん」と言った方が馴染みがあるでしょうね。馴染みがあるったって松田龍平ファンでも「そりゃいいや。買おう」と言う人は、なかなかいないと思いますが。

さて、代書屋の話です。
有名な話ですので、知ってる方もいるでしょうけど、代書屋というのは、今でいう行政書士みたいなもんです。
とはいえ、昔の話ですんで、今ほど役所書類が多かったわけじゃございません。
役所書類ばかりでなく、個人的な手紙や、中には遺言書なんてのも依頼する方がいたそうです。その遺言書を書いてもらった方は、中身をどうやって確認するんでしょうね。

「頼んでんだから、間違いのねえようにしてくれるに違いない」という信頼の絆なんて言うと良く聞こえますが、要するに、投げっぱなしのヤケッパチで頼むしかなかった。そういう時代だったんでしょう。

落語の代書屋は、そんな代書屋の元に「仕事見つけてえから履歴書をくれ。ひとつでいい」と男がやってくる所から話が始まります。

履歴書を「ひとつ」と数えるぐらいなもんで、この男は履歴書がどういうものか知らない。

「三丁目んとこの親方に言ったらリレキショもってこい、って言うもんで。ここで売ってるんだろ?」
溜息をつきながら代書屋が「じゃあ、まず名前は?」と尋ねると「親方の?」と返される。

といったトンチンカンなやり取りが面白い話です。

よろしければ、聞いてみてください。
当時の講演も、今となっては、ずいぶん古い話ですんで、枕話からして興味深いかと思います。

 

代書屋

代書屋

 

 

髪の短い女の子。

とある村の写真を見ていたら、えらく髪が短い子ばかりなことに気づいた。

男だけでなく女もだ。

無精した野球部みたいな短さ、丸坊主を3か月ほっといた、みたいな。

 

なんでだろう、と考えてみて気が付いた。

 

長い髪を衛生的に手入れできないんだ。

 

同い年の子がオシャレして売春宿に入り、ステロイドを飲まされて客をとってる中で、NGOの保護を受けたこの子たちは、ラッキーだったのだろう。

 

それでもラクをしてるわけではないんだな、としみじみ思った。

頑張って生きてほしいもんだ。

 

近所を広げる

昔、自転車で200kmほど走ったことがある。

実家-大阪間だ。

死にそうな思いもしたけど、終わってみれば「あ、近い」と感じるようになった。

 

最近は都内近郊の自宅から、兵庫の実家まで車でバーッと走って帰ってしまえるのだから、人は成長するものだな、としみじみ感じる。

んで、やっぱりこれももう「近い」と感じる距離になってしまった。

 

でも、昔、飛行機で東京に来た時や、沖縄に行った時には、そうは思わなかった。

飛び地のような感覚で「慣れた土地だけど、つながってない」。

 

自分の中で、それをつなげるのは、自分の自由が利く方法で移動できた時だと思う。

徒歩、自転車、車などなど。

電車だと何度通ってても、やっぱりつながった気にならない。

 

車を手に入れた時は、これで首都圏もばっちりだ!と思ったけど、都内は車だと渋滞で死ねる。

というわけで、これからは自転車で開拓せねばなー。

どうやって自己肯定感をアゲアゲするのか。

自己肯定感について解説してる記事を見かけました。
コメントに「だから、どうやってあげるんだよ」とついてたので、自分なりのやり方をつらつらと書いてみます。


■自分をほめる、って難しい。

「さあ、自分を褒めましょう! 生きてておめでとう、自分! ハッピーバースエブリデイ自分!」

なんかのコントか?ってなりませんか。
私はなります。

「一生懸命頑張った私にご褒美を」というキャッチコピーがそこら中にあふれてますが、それですら「で、結果だしてんの?」と冷笑で迎えられる世間様です。

謙遜が美徳とされる日本で、自分を褒めるの、って『世間の波に逆らうこと』なので、かなり難しいんです。


■なので、他人を褒めよう。

「今日は残業をがんばったんですね。投げ出さない姿勢、私はすごいと思います」
「上司に嫌なことを言われても、言い返さずに我慢されたんですね。私はすごいと思います」
「恋人に理不尽に怒られても、優しく振舞った許したんですね。私はすごいと思います」
「友だちに裏切られたのに、許そうとして悩まれてるんですね。私はすごいと思います」
「そんなに辛い体験に耐えて、今日まで生きてこられたんですね。私はすごいと思います」

他人を褒めるポイントはたくさんあります。


■褒められない、という人もいる。

「いやいや、その程度のこと、○○の方がきついし、大したことじゃないよ」という意見もあると思います。

ところで例えばですけど、野口英世石田三成。どっちが苦労したんでしょうか。

数々の差別を受けて心労からアル中になりながらも医療を続けた野口英世と、忠義を尽くして奔走したのに周りに理解されず罪人として処刑された石田三成

どっちも苦労してますよね。

私とウサインボルトさんが、絵を描いたらどっちが多く疲れるでしょうか。
比べられないですよね。

苦労はその人のものなので、誰かと比べる必要はないんです。


■他人褒めたらどうなんの?

他人の文句を言ってしまった後で「あー、これ、自分にも当てはまるな」と自己嫌悪に陥ったことないでしょうか。

ちょっと抽象的な表現をしますが『意思』は『言葉』になった時点で、意思から切り離された存在になるので、客観的にそれを見ることが出来ます。

寝る前に書いたポエムを朝になって見ると破り捨てたくなるアレです。
書いてる間は『意思』なんです。
書き終わってしばらく経つと『言葉』として客観的に映るようになります。

なので、他人を褒めることは「○○をするのはすごいことだ」と自分で基準を定めることになります。
ということは、自分も「○○」をすれば、自分自身をすごいと認めることになります。


■ただし、誉め言葉は本心から。

うわっつらだけ撫でたような褒め方はダメです。
「部長、ナイスショット!」みたいなのはやめましょう。

エヴァの話をするとですね。
最初の方で、操縦がうまくできなくて、結果的にエヴァが暴走して敵を倒して、何の達成感も得られず、しょんぼりしてたシンジ君に、ミサトさんが高台から街を見せて「あなたが守った街よ。誇りを持ちなさい」って言うシーンがあるじゃないですか。

人は、何かを守りながら生きている生き物です。

それは家族かもしれないし、会社かもしれないし、友人かもしれないです。
本人は「自分の生活を守っているだけ」と思っているかもしれませんが、それは同時に、他人の社会生活を守ることにも繋がっています。

誰かが一日生きることは、他の誰かを一日守っているのです。

「あなたが守った社会よ。誇りを持ちなさい」と言ってみませんか。



■それでも難しいと言う方へ。

この記事をここまで読んだのは、あなた自身のためでしょうか。
それとも誰かのためでしょうか。
なんとなく好奇心でしょうか。

誰かのため、と答えたあなたは、思いやりのある方です。
自分のため、と答えたあなたは、向上心のある方です。
好奇心を答えたあなたは、勉強意欲のある方です。

みなさん、素晴らしい!


といったオチをつけた私もまた、素晴らしい。てへへ。

人は人!

自分が若いころってどうだったかなー、と思いだしてみた。

 

高校ぐらいの頃に、初めて大阪に一人で行って、大阪駅から降りて、地図を見ながら堂島あたりのイベント会場まで歩いて行った。

たったそれだけで「都会、ちょろいな!」と思った。

 

大学行く意味なんて最初から分からんかったし、カプコンでゲーム作って秘書連れて大阪で高級車乗り回して、ファミ通の巻頭でロクロを回してる未来像しかなかった。

だから専門学校行って「ゲーム性っていうのは」とか毎日語ってた。

 

ほんと、あの頃、SNSが無くてよかった。本当によかった。

 

専門学校で運よく優秀な先輩を捕まえることが出来て、学校の中を世界のすべてにして、毎日楽しめたのは、本当に運が良かった。

教師から体よく頼まれた雑用をこなす待ち時間に、友だちと一緒に缶コーヒーを飲んでる毎日の時間が、高校まででちっとも育たなかった自分の自尊心を育んでくれたと、今なら分かる。

 

ただ、専門学校には居場所がない人もいた。

そういう人は、同じクラスにもいて、遅刻の常習犯で、学校に来てもつまらなさそうにしていた。

周りの人たちから「学費がもったいない」と怒られてたし、自分も同感だった。

今なら、そのアプローチは違うとわかる。

 

かけるべき声は、「何もない」だ。

ただ、隣にいて、話し始めるのを待つ。話し始めたらじっと聞く。

うんうん頷いて、具体的なことを深掘りして「それいいね」と心から同意すること。

それが自分の世界を深掘りしてくれると今は分かる。

 

もったいなかったな、と思う。

話したところで友だちになれなかったかもしれないけど、分かろうともしなかったことが、本当にもったいないと思う。

 

そんな風に、できなかったことの記憶が自分にはたくさんある。

少しだけ、できたこともあるので、毎朝、太陽向いて歩いていけてるけど。

 

自分はあまり自分からあれやるこれやると始めるタイプではない。

なので、他人の話を聞きたい。他人の話を通じて、自分の世界を深くしたい。

 

まあ、酒入ってると説教おじさんになるけど、年のせいなので、勘弁してほしい。

最近はシラフでいるようにしてます。