そらを自由に飛びたいな

おっさんのぼやきです。

さみしい弁当。

 
冷凍のからあげ2個とコロッケ1個。
あと切り干し大根。
それに白米。
 
という弁当を食ったんだが、なんかこう、さみしいな。
からあげ2個というのが悪かったんだろう。
もっとこうドカッと「わーい」って感じで盛らないといけなかった。
 
そんなわけで、若干どころかかなり物足りない気分です。
 
■うーむ、変化がない。
 
あれこれと効率化していきたいのだけれど、目の前の作業をやるだけで一日が終わってしまう。
 
まあ、単純労働で高い給料もらってると思えば腹を立てる筋ではないのだろうけど、ストレスは溜まる。
 
■変化を感じる時は、大抵、取り返しがつかなくなった時だ。
 
例えば、田舎に帰った時にふと駄菓子屋が潰れていることに気づいた時とか。
でも、それまでは誰も気付かない。
 
店じまいセールのように、皆に惜しまれながら「愛された」という記録だけを残して、愛したことを記憶しないものたちを恨みながら、変化は過ぎていく。
 
それはある意味では幸せかもしれない。
少なくとも、愛されたのだから。
恨みを覚えられるほどの愛がそこにはあったのだから、きっと幸せだ。
 
そんなエネルギーなどカケラもなく、ただ生まれ、ただ死んでいくもののなんと多いことか。
 
一人で過ごしていると、愛が生まれてこないのがよく分かる。
悔しくもなく、羨ましくもなく、欲求もない。
ほっとけば、このまま死ぬのだろう。
もしかすると、それは別の意味で幸せなことかもしれない。
 
恋人と別れたばかりの人間の話を聞けば「一人が気楽でいいよ」と言うかもしれない。
離婚した人間の言葉に耳を傾ければ「結婚なんてするな」と言うかもしれない。
死んだ人間の言葉に耳を傾ければ「長生きなんてするもんじゃない」と言うかもしれない。
 
だけど、それでも、ってことなのだよ。