そらを自由に飛びたいな

おっさんのぼやきです。

中庸にワナビー。

 
中庸でありたい、と常々思う。
 
『中庸』(ちゅうよう)
儒教思想の内のひとつ。
字面で見ると「真ん中」っぽいけど、ちょっと違う。
 
平均とか真ん中というよりは「バランス感覚に長ける」という解釈を個人的にしてる。
 
なので、どっちつかず、というよりは「どちらについているか認識した上でついている」とか「偏っていることを自覚している」とか、そういう意味合いも含まれる、と思う。
 
違ったらスマソ。
なんせ『中庸』そのものは読んだことがないんだ。
難しいからな、ああいう本は。
 
■昔々、あるところに小説があり。
 
そのシリーズはもうかなり前に絶版になっていて、今では中古でしか手に入らない。
 
自分も何度目かの引越しの時に手放してしまったのだけれど、もったいないことをしたかもなー、とちょっとだけ後悔している。
 
その物語の中で、とある滅びた村が出てくる。
その村に現れる大量の亡霊たちはうわ言のように「子供たちの呪いにかけられて成仏できない」と苦しんでいる。
 
事情を聞いてみると、彼らは生前、自分たちの子供を食べてしまったのだと言う。
 
食べ物がなく、泣く泣く、順番に家ごとの子供たちを大人たちで食べた。
 
この事実を知り、ヒロインは怒り亡霊を消し去ろうとする。
「子供を食べるなんてひどい!」と。
 
けれど、主人公がそれを止め、安寧の安らぎを彼らに与えた。
「オレは本当の意味で死ぬほど腹が減ったことがないから、彼らを責めることは出来ない」と。
 
ちなみに当の子供たちは、大人たちをまったく恨んでおらず、大人たちは大人たち自身の罪悪感によって呪われていたのだ、というお話。
 
■そうありたいよなー、と思う。
 
もちろん、許せないことはある。
殴られたらムカッとするし、疑われてもムッとする。
自分はこう見えて短気なのだ。
 
でも、別に自分が傷つけられていないのなら、その動機ぐらいは知っといていいんじゃないかな、と個人的には強く思う。
 
誰かが知ってくれている。
 
それは多分、なによりの贖罪であり、救いになると思う。