そらを自由に飛びたいな

おっさんのぼやきです。

面白い話を『してくれる』人、なあ。

 
漫才でも落語でもそうだけども。
基本的に面白い話というのは、聞き手がいて初めて実現する。
 
真面目一徹、冗談大嫌いな強面オッサンたちの前で漫才したって、面白いわけはない。
 
けど、その光景を第三者の視点で見た時、冷や汗を浮かべながら一生懸命笑わせようとする漫才コンビと、それに対して全く反応を示さない観客という図は面白いと思う。
 
つまり、面白がれるかどうかは切り口次第なのだと思う。
 
んで、面白い話をする、というのは単にその切り口を相手にわかりやすく見せているだけで、世の中面白い話はそこらじゅうに転がっているものだと思う。
 
■自分の世知辛い話。
 
かつて実家の会社で働いていた頃、会長である自分の父親が典型的な『高度成長期にうまく乗っかった大将』であったので、ひどい目には結構あった。
 
例えるなら。
「キリストが水の上を歩いたのを見た!」という理由だけで、「お前も念仏唱えながら歩けばいけるはずだ」と湖に投げ込まれる、みたいな。
 
往々にしてそういうことの多い父親であった。
 
のであるが、この話を友人にすると「他人ごとだから、とても面白い」と返された。
 
まあ、他人の不幸は蜜の味、というように他人の世知辛い話ほど面白い話はない。
 
となれば、世知辛い話と同じだけ、面白い話が世の中に溢れているはずなのだ。
不景気なら尚更である。
 
切り口ひとつ。視点ひとつ。
 
■しかし、あまりそればかり、というのも性悪だ。
 
他人の不幸を一つ笑ったなら、自分の不幸を九つ話す。
 
それぐらいでいいバランスのような気がする。
 
■愚痴とおもしろ話の違いはオチがあるかどうかだけ。
 
オチさえあれば、大体良い。
 
■今日の猫。
 
とりあえず夜中だけケージに入れることにした。
 
理由としては、主に俺の安眠の為。
 
寝ている最中に運動会やられるのもかなわんし、朝6時からニャアニャアガリガリとドアを引っかかれるのもかなわん。
 
仕事で疲れてる時は本当に愛情を試されてる気になる。
愛されっぷりを試すメスほどめんどくさいものはない、という点においては人間と一緒だのう。
 
まあ、そういうトコも可愛いんですけどね(盲目)