最近はあっちこっちで、変な話がポコポコ出てくる。
自分のアンテナがそっち方面に向いてるのか、あるいは本当にポコポコ出てきたのか。
まあ、暖かくなりましたからねえ。
■カネを集めて学校に通う、ということ。
studygift
http://studygift.net/home.php
ネット界隈ではそれなりに有名な女学生が奨学金を(成績悪化で)打ち切られたので、金くれー、と言い出しまして、そのサポートをしましょう、というサービスが始まったわけで。
真面目なツッコミに関しては、やまもといちろうさんのトコが本日、総ざらいしていったので、気になる人はどうぞ。
家入一真さんの例の件で願うことなど
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2012/05/post-3261.html
まあ、この話についてはここまで。
■んで、寄付による教育について思うこと。
自分も少額ですが、海外の子供向けに寄付してます。
海外里親制度というんですが、四歳、五歳ぐらいの「まあ、ここまで育ったんだからメシさえ食ってりゃそうそう死ぬことはなかろう」ぐらいの少年少女の養育費を出してくれ、という。
年に一回か二回ほど、その子供から写真と簡単な絵手紙が届くんですけど、何が描いてあるか分からん。
自分もたいがい子供の相手は慣れてますし、子供が描く絵を読み解くのも、それなりに自信があったんですが、まあ、全然分からん。
文化が違えばここまで違うのか、とショックを受けたもんです。
■でも、架空の存在ではないわけだ。
絵を描いてるわけですから。
まあ、もしかしたら写真の少年はすでに亡くなっていて、代わりの誰かが持ち回りで絵を描いているのかもしれん。
それでも、絵の先に人がいるのだ。
まったく文化の違う子供がそこにいる。
子供が描く絵と、大人が子供のフリして描く絵の違いは分かるからな。
■こうなると、おいそれと寄付を打ち切るわけにいかん。
少額とはいえ、あちらの国では子供一人がメシ食って屋根の下で寝て、勉強をすることが出来る大金だ。
打ち切るわけにいかんだろー。
寄付って、なんかそういうもんなんだなー、と今実感してます。
どこかの子供に数千円寄付すんのも、猫飼うのも、おなじこと。
自分以外の生命にちょっかい出すのは、なかなか緊張感ありますよ。
■だから、といって慎重になりすぎるのはどうかと思うけどな。
子供の頃に、猫を飼いたい、と言ったら「最後まで面倒がみられないなら止めなさい」って親に怒られました。
まあ、それは正論としてあるんだろう、と思うんですよ。
心構えの問題としてね。
ただ、実際問題、今この瞬間にオレに心臓が止まったら、
うちの猫二匹は多分、オレの死体が発見されるまで餌食えないですよ。
まあ、結構な確率で餓死しますわね。
(オレの死体食ってるかもしれんけど)
でも、自分が飼わなければ、うちの二匹は保健所に連れていかれて死んでたでしょう。
■考えれば考えるほど「最後まで面倒を見る」というのがいかに約束しにくいかが分かる。
未来は分からん。
分からんことを約束するのは無責任だ。
不誠実だし、キッチリしていない。
どちらかといえば「だらしない」に入る。
■じゃあ、何もしないことが『正しい』のか?
それについては、寄付も含めてまだ分からんです。
むしろ、それが分かりたかった、というのも猫飼い始めたり、寄付を始めた理由のひとつです。
『優しい』とは何ぞや。『愛』とは何ぞや。
■今日の猫。
壁紙引っ掻いたり、走り回ったり、ラグマットをむしったり。
しかし、叱っても通じない相手を叱るのは愛ではない。
だから、グッと我慢して今日も餌を用意する。
まあ、元気でいてくれりゃいいよ。