そらを自由に飛びたいな

おっさんのぼやきです。

外国語習得に関する覚書。

 
中国語のカフェレッスンをやめた。
いろいろと考えた末に「やめます」と連絡したら、あっさりと「分かりました。次回の授業はキャンセルですね」と受諾され、なんだか拍子抜け。
 
気づいたことをさらさら書く。
 
■カフェレッスンは『授業』だけしかない。
 
というのをつくづく感じた。
たまたま、自分の先生がそういう人なだけかと思ったけど、ほかの先生にも当たってみて、カフェレッスンそのものがそうなんだと確証をえた。
 
■学ぶには授業だけじゃ足りない。
 
学生自身が今、どのレベルにいるのか。
授業内容で分からない点があるか。
これまでの内容を誤解なくちゃんと理解しているか。
理解するための反復練習(宿題)は適切に出題されているか。
などなど。
 
これらを授業時間内でやるのはムリだ。
平たく言えば授業の先生とは別に『担任の先生』が必要なのだ。
 
■マンツーマンだから、好き勝手できるわけじゃない。
 
あくまでも、先生のスキルの範囲内のことしかできない。
 
先生が一冊の教科書しか読み込んでいないのなら、
授業も同じものを使わざるを得ないし、
先生が学生の「分からない理由」を理解できなければ、
お互いにスルーするしかない。
 
そう考えると。
「ここが分からないんですけど」と尋ねると「それか」とサラサラと詳しい解説をしてくれた義務教育の先生というものはスキル高かったんだな、と思う。
 
■外国語ネイティブだから良い、というものではない。
 
まず、言葉の壁がある。次に文化の壁もある。
 
「ここが分からないんですけど」と尋ねても、そもそもどこかが分からないのかすら把握してくれない時がある。
日本語ネイティブ同士なら「日本語だとこうじゃないですか」とか例も挙げられるのだけど、相手が外国語ネイティブだった場合には、それすら通じないこともある。
 
あと、文化の壁。
「そういう時はこう言います」と特殊な例を出された場合に、それがその人特有の言い回しなのか、外国人全員そう言ってんのかの区別がつかない。
 
■先生は『割のいいバイト』程度の意識しかない。
 
これが一番でかい。
 
日本語だと例えば「どんなもの?」と「どういうもの?」は違う言葉だし、大抵の日本人は自然と使い分けている。
でも「この2つはどう違いますか?」と尋ねた時に「同じようなことです」と流されるんですよね。
 
最初はそう言われても粘って使い分けを尋ねたりしてましたけど、だんだん「この人はそういうことを教える気がないんだな」と思ってきたので、帰ってから自分で調べることの方が多くなりました。
 
先生雇ってる意味ないですね。
 
■カフェレッスンでも。
 
「ある程度は自分で勉強したから、あとはネイティブ相手に通じるかどうか試したい」とか。
「ビジネスや大人の言葉遣いとして考えた時に失礼にならないかを確認したい」とかとか。
 
そういう最後のツメ的に使うなら良いかと思います。
 
■初学者はおとなしく学校通った方が良いですねー。
 
つくづくそう思いました。