Tシャツを頭からすっぽりかぶった瞬間に違和感を覚え、これはきっと反対だったのだろう、と半転させてから着てみると、だいたい反対になる呪いにかかってるので、きっと前世では服屋で悪いことをしたに違いない。
違和感なく着たのに反対になってるTシャツはベトコンだ。
違和感あったからひっくり返したのに反対になってるTシャツは訓練されたベトコンだ。
意味は無い。
■負けることを楽しもう。
「勝つことに執着できないからには負けることを楽しまねばならない」
というのは、元ファミ通ライター、ソフト永田さんの言葉であるけれど。
これはゲームに限らず、人生にも言えるんじゃなかろうか。
例えば世間は今、クリスマスである。
古い慣用句に「盆と正月が一緒に来たよう」というのがあるけれど、2014年の現代においてはクリスマスと正月がだいたい一緒に来るので、昔の人が見れば、年がら年中馬鹿騒ぎしてるように見えることだろう。
それはさておき、世間様はクリスマス一色で、近所のスーパーなどは一週間前からひたすらチキンを推している。惣菜売り場なのに。
家族でパーティーか、カップルでフィーバーか、よく知らないけど、とにかく「おいおい、クリスマスに一人で過ごすやつなんてまさかいねえよな?」というテンションで攻めてくる。惣菜売り場のくせに。
一人で過ごす予定しかない自分などは、完全に戦う前から負け確定。そう、負け犬である。負け組である。だが、まけ、をアルファベットで書けばmakeであり、モノづくりが本職である自分からすると、これは満更でもない。いや、モノづくり職そのものが負け、ということか。
たしかに職業別年収ランキングで言えば、上位は弁護士とコンサルである。モノづくり立国などと言っても、まずはコンサルと弁護士が9割持って行って、残りを制作スタッフが分け合うわけである。
今の日本でフランス革命が起こったら、反乱軍に真っ先にコンサル会社を狙え、とアドバイスする予定であるぐらいには理不尽を感じている。あれこそ現代の米問屋である。大塩平八郎はいずこぞ。
いや、そんな話がしたいわけではない。
つまるところ、負けてるのだ。今後も同様かどうかは分からないけど、とにかく今は負けている。
敗北感はたっぷりだ。
じゃあ、腐るしかないのか。ふてくされて寝てるしかないのか。
そうでもないんじゃなかろうか。
花の香りを嗅いだあとで、顔面を殴られたとしても、花の香りを嗅いだ事実は消えはしない。
けれど、人間の情として痛みだけが強く印象に残ってしまうのだ。
で、あれば。
両方、記憶しておこう、というのが「負けることを楽しむ」というものだろう。
花の香りを嗅いだ幸福感と。
顔面を殴られた悔しさと。
勝てなかったからといって、全てがダメになるわけではない。
その過程には良いこともあったはずなのだから。
例え、片思いばかりで、恋愛が成就することなく、結婚もすることなく、一人で死ぬことになったとしても。
片思いの間に感じたことを自ら消す必要はない。
ああ、綺麗だ。かわいい。美しい。いい匂いだ。笑ってくれた。話しかけてくれた。名前を覚えていてくれた。
そういうものを胸を抱いて死んでいくのも、一興ではなかろうか。
所詮、諸行無常。死に清貧なく、ただの躯になるのみ。
そんなことを思いながら、年の瀬の街中を歩いてきました。
意味は無い。