そらを自由に飛びたいな

おっさんのぼやきです。

高校生の漫画読むと改めて、母校ひどかったな、と感じる話

知人におすすめされて阿賀沢紅茶作品を2本読みました。

1本は今も連載中で、人気の「正反対な君と僕」です。

「空気を読む女子」と「孤独を好む男子」のギャップある恋愛を中心に描きながら

いろんな生徒が出てきては、それぞれが正反対の人と出会って、

ギャップのある人間関係を構築していく物語です。

あまり内側で考え込む展開が少なくて、明るくコメディ多めで話が転がるところが少年漫画っぽいな、と感じました。

 

あと、恋愛漫画と思って読むと、定番の「勘違い・すれちがい」による物語のひっぱりがほとんどなくて、だいたい1話2話でサクッと終わるので読後感がとても軽いです。

登場人物全員が賢い。

私立の進学校なんだろうな、と読みながら思いましたが、私立の進学校に行ったことないので適当です。

 

個人的なお気に入りはサトちゃんです。

真顔で塩ツッコミをするところがとても気に入っています。

 

この作品の中で「タイラ」と「アズマ」という人気の二人組が出てくるんですが

作品に寄せられたコメントで

『この二人が気に入った人は「氷の城壁」を読むのオススメ』とあったので

氷の城壁も大人買いしました。

 

こちらは、先程の作品と比べるとかなり少女向けの恋愛漫画です。

登場人物のほぼ全員に、小中学校で何かしらショッキングなライフイベントがあり、

高校生になった今もその影響から抜け出せない、なんなら影響下にあることすら自覚がない、という所から物語が始まります。

なので、お互いの勘違いやすれ違い、思い込みなどによって恋路を迂回しまくります。

 

この作者の特徴なのか、最近の少女漫画がそうなのか、は不勉強なのでよくわかっていませんが

いわゆる「陽キャ陰キャ」や「クラスカースト」などのカテゴライズした後に

本人と実際に接して『相手もまたただの人間なのだ』と気づく展開がよくあるように思いました。

とはいえ、ワンパターンでもなくて、ちゃんとそこにギャップを持たせてくるので、飽きがきにくい仕掛けになっています。

 

「ただのいいやつ」も出てこないし「ただの嫌な奴」も出てこない。

登場人物のほぼ全員に、弱さがあり強みがあり、良いとこも悪いとこもある。

だからこそ、お互いにリスペクトできる。

あ、うそ。一応、邪悪の権化みたいなキャラいたわ。

あいつひどい目にあえばいい。

 

ただ1点、コメントで「もう完結してるから、読み切れる」とあったので

全13巻かと思って読んでたら13巻の最後に

『最終巻14巻は2025年発売予定』とあってずっこけた。

 

仕方ないので、14巻相当の話だけをLINE漫画で少しずつ読んでます。

いや、もう買っちゃっても全然いいんだけども。

 

毎月、漫画に数万円支払ってて全く気にしてないのに

無料漫画アプリにお金を払いたくない気持ちってなんなんでしょうね。

 

以上です。

田舎と都会の「文化」のあり方

anond.hatelabo.jp

 

記事を

「東京は家が狭くてモノが置けない。モノに付随する文化を家の中に置けないよね」

と解釈した。概ね同意である。

 

とはいえ、田舎だから家の中に文化があるかといえば、さにあらず。

 

・田舎の場合、当人あるいは家族が文化に関心を持つ必要があるよ。

・都会の場合、関心なくても多少は目に入るよ。

・都会で暮らして目に入った文化を仕入れて、田舎で継承していくのは良いかも。

・でも継承者も都会で暮らして、外から文化を吸収したほうが持続性あるよ。

 

という話をしたい。

 

 

例えば映画ひとつにしても

最近は動画配信サービスが当たり前になっていて

日本全国どこからでも膨大な量の映画が楽しめるようになった。

 

でも映画に興味ない人は見ない。

触れることはできるし、いつでもそこにあるのにスルーする。

 

最近よく聞くのは「子どもに見せたいアニメ」の話題だ。

親自身が子どもの頃に見て感動した作品を、我が子にも見せたい、あわよくばファンになってもらいたい、という話なのだけど、これも親自身が『感動した作品がある=文化を知っている』ことが前提となっている。

 

私自身の両親はアニメも映画も美術も関心がない人たちだったので、似たようなことはできないだろう。

 

ただ、中学生の頃を思い返して見ると、そういう文化がある家庭なのだろう、と推測できる同級生は何人かいた。たいてい、親が教師だったり、医者だったりと賢そうな家庭だった。

 

『代々、地元育ちで地元で生きてます』みたいな家庭は私と同じく、そういった芸術や文化に関心がなかった。酒タバコ車ギャンブル色恋が最大の娯楽である。

私もそちらの価値観に染まった方が、わかりやすく幸せだったかも、と考えることはある。なにせSNSのない世界である。

 

しかし私はもうサブカルを知ってしまったし、東京で暮らしているし、悠々自適な暮らしをしている。もう戻れないし、あまり戻りたくもない。

この状況で田舎に戻れば、家の中にモノにまつわる文化を置きたがるだろう。

外にないからだ。

 

都会は狭くてモノが置けないが、外に行けばいくらでも触れることができる。

また文化の継承という面を考えると、継承者は家の中にあるもので満足することなく、外にあるものを探しにいったほうが持続可能性が上がるんじゃなかろうか。

 

みたいなことを思った。

不安を煽るものから距離をおく

古今東西

歴史をさかのぼってもさかのぼらなくても

人類史は争いばかりである

 

争いは当事者じゃなくても

その火種がこっちに飛び火しないかと不安になる

そうして人は危ないことから距離をおく

 

しかし距離をおいている人を追いかけてきて

「まだ危ないよー!どうなるかわかんないよー!」

と煽る存在がある

これは特定個人であることもあるけど

そういう仕組みで動いてる組織なんかもそう

 

「都会の夜は危ないからね」と助言する老婆は善意で言っている

「東京都で事件が発生しました」と告げるテレビ番組は使命感で言っている

よかれと思って言っている

 

でもそういう助言自体が不安になる

疲れている時なんかはとくに

 

今日か明日

あるいは一年後にのっぴきならない状況になるのか

ならないのだとしたら

いったん距離をおいてみる

 

少し離れて

自分よりドタバタする人たちを眺めれば

少し落ち着く

 

落ち着いたらまた戻ればよい

心の旅行みたいなものだ

 

そんなときにちょうどいいのが物語である

物語は心をここじゃないどこかへ連れて行ってくれる

小説でも映画でも漫画でもドラマでもなんでもいい

 

物語を作るのもいい

5・7・5の文字に季語を加えれば物語になる

丸を描いて丸の中に3つの点を打てばキャラクターの顔になる

そのキャラクターはどういう人だろうか

 

心の旅行を楽しもう

いつか戻ってくるために。

空と君の間にモノがある

読み物や音楽など形のないモノとのつながりは希薄なので

形のあるモノ、例えばキーホルダーやタオルなどが欲しくなる

ここにある何かがほんとにあるか不安だから皮膚に墨で刻んじゃえ、みたいなのも類似だと思ってる

見えないモノが怖いから見えるものに変換しようとする

変換できている、と思うことで不安は減る

 

 

反面。

形あるモノは誰でも触れることができる

ハサミが置いてあれば誰だって使うことができる

「よくも私のハサミを使ったな!許さん!」

みたいな怒り方をする人はあんまりいない

誰にでも使える

だから関係を感じるために誰にも使えないモノがほしくなる

 

 

谷川俊太郎さんの本で(たしかほぼ日が出したと思う)

「我が子が死の概念を知ったようで『死ぬのが怖い』と泣きます、なんと答えれば良いでしょうか」

みたいな質問があり

「『怖いね』と言って一緒に泣いてあげてください。泣きつかれたら温かいミルクを一緒に飲むといいです」

というのがある

 

 

一緒に泣くのは形のないモノで

温かいミルクは形のあるモノだ

両方あるといいよね

 

 

という話

ドアを開けようとする猫の徒労と人類ガチャ。

暗めの話を書く。

 

ーー

 

我が家では、猫は夜間、専用の部屋(猫部屋)で寝てもらっている。

我が家の猫の朝は早い。早すぎる。

なので、人の安眠のために、部屋に閉じ込めている。

 

毎朝、猫部屋から、ドアをひっかくガリガリという音がする。

それでドアを傷つけられると、安くない修繕費を支払う羽目になるので、防護用にプラ板を貼っている。

なので、正確にはガリガリではなくカスカスという爪が滑る音がしている。

 

んで、その音がしようとしまいと、自分は起床アラームまで寝てる。

起床アラームのあと、起きて開けている。

つまり『猫部屋のドアが開く』のは起床アラームが鳴るからだ。

 

でも、猫視点で見れば「プラ板をひっかき続けるとドアが開く」ので、毎朝、ひっかき続けてるのだろう。

メタ的に言えば、無駄だ。

けれど、ひっかき続けるので人に「ああ、開けてほしいのだな」とは伝わっている。

 

 

こんな感じの無駄を、多分、人類もたくさんしているのだろう。

例えば、世の中にはすごいことを達成した人が少なからずいる。

1万人に1人とか、10万人に1人とかそういう割合で。

 

そういう人と、自分に何の違いがあるのか、を考える。

才能、努力、環境、様々な要素で違う。

じゃあ、自分には、才能、努力、環境は何も整ってないのか、と言えば、そうでもない。

だとすると、結局のところは運だ。

自分の体力や環境の中で、できる限りの努力をして、あとは運を天に任せる。

そういう生き方をしていくしかない。

 

1日24時間のうち、23時間を寝て過ごさねばいけない人もいるだろう。

文字を読み続けると頭痛がする、という人もいる。

その中で、その人なりに、一日一日を精一杯生きていく。

その結果、1万人に1人とか10万人に1人の割合で「すごいことを達成する人」が出る。

 

これはもうガチャだ。

SSR(スーパースペシャルレア)がすごくて、C(コモン)はすごくない」という話とは別の話として、「SSRが出るまでガチャをし続ける凄さ」の話がある。

 

 

人類全体のハードルとして「もっと長生き」「もっと健康に」といった壁がある。

その壁を突破するのが、誰であろうと、誰かが突破すれば、それ以後は人類全体に恩恵がある。

そのための、ガチャ券が、一人ひとりの人生なのではないか。

だとすれば、SSRではない自分の人生もまた、いつかSSRを出すために必要なことなのかもしれない。

 

 

もちろん、この考えも含めて『結果的にドアが開いただけで、君がひっかいてる行為は全部無駄ですよ』ということもありうる。

ーー

 

先日、どなたかの投稿で「推し活なんてのは、本来、自分の家族に向けるべき愛情を、他人に取られてるだけだ」みたいな話を見かけた。

 

そういう見方もできるかもしれないけれど、自分としては、推し活だろうと、自分磨きだろうと、すべての努力は『結果的にドアが開く』につながってるんじゃなかろうか、と思ってる。

 

いや、「信じていたい」のかも。

あの舞台をまだ覚えてるなあ

中年の昔話。

 

先日、故郷で、演劇の大きなイベントがあったそうな。

詳しくは知らないけど、ニュースになるような大きなトラブルもなく無事終わったそうな。

(知人の劇団も出演してたようで、その情報発信経由で知った)

 

そんな演劇イベントをさかのぼること、15年。

2007年とか8年ぐらいだったと思うけど、その頃にも一度、田舎町で演劇舞台があった。

演目は『笑の大学』、三谷幸喜脚本で、演者2名による会話劇。

美術も必要なくて、机1つと椅子2つあれば成立するという費用的に優しい演目。

(ってことは必然的に、舞台クオリティ=演者の力量、になるので難易度の高い演目だと今なら分かる)

 

劇団は結成したばかりで、団長さんは名前を失念したけど、東京で演劇をされてた方、とパンフに書いてあった気がする。

東京で演劇の経験を積んで、故郷の町で劇団をたちあげて、メンバーも地元で集めて「この町に演劇文化を」といったことが書いてあった記憶がある。

 

自分は、三谷幸喜ファンであり、演劇舞台も興味があったので、見に行った。

地元の文化会館で、客数は演者の知り合いであろう10人ぐらい。ガラガラだった。

自分は舞台がよく見える中央の席を陣取った。

 

舞台は、役者2人の力量のギャップが埋まっておらず、迫力の不協和音が約2時間続くという内容だった。

当時の自分ですら「これは脚本が」「時間が」「演者は」などなど色々と気づく点があった。「でも、気づいていてもどうにもできなかったんだろうな」と察した。

『ダメなところを見つける』能力と、『それをどうにかする』能力は別物だからだ。

 

見つけたからにはなんとかしたい、と思うのが人情だと思う。

けれど、なんとかするには、ヒト・モノ・カネの壁が立ちはだかるし、毎回それをクリアできるわけではない。っていうかクリアできないことの方が圧倒的に多い。

 

舞台のアンケートに「次を楽しみにしてます」と書いた。

でも、何年たっても次の舞台はこなかった。

その初回公演のみだった。

 

今、故郷の町とその周辺は演劇で盛り上がっているらしい。

検索してみて気づいたけど、演劇の学校などもできているらしい。

もしかすると、何年か後には自分が仕事先で自己紹介をした際に「ああ、あの演劇の」などと反応をもらえるかもしれない。

故郷を指して『文化的要素が一切ない町』などと言えなくなるかも。

 

あの団長さんは、今はどうしてるのだろうか。

熱量あふれる演技で今も役者をされてるのだろうか。

元気でいてくれるといいなあ。

 

と、そんなことを思い出した。

ヘルプ依頼を本人にさせちゃいけない

結論を先に書くと

「許容量を超える作業に追われているとき、本人からのヘルプを待っていてはいけない。本人にヘルプを出せる余裕がない場合もあるからね」

という話です。

残りのテキストは例示と解説と苦情です。

 

例えば、両手に荷物をいっぱい抱えてる人がいたら、その人は、歯を食いしばって重量を支えてるわけで、「たすけてー!」と声をあげることも出来ないんですよね。

それは周りの人が「あ、やばいぞ、あの人」とヘルプに入る必要があります。

 

コレに対して『いや、「助けて」ぐらい言えるだろう』という意見については、もちろん当てはまる場合もあるのですが、『当てはまらなかった時』を考えると、さっさと周りが助けに入ったほうがいいですよね。

 

「困ったときは、本人が声を挙げるべきだ」みたいな話は、リスク管理の視点からすると『本人が声を挙げられない場合も考慮すべき』となります。

 

んで、これは仕事でも私生活でも似たようなことが言えます。

 

 

『限界ギリギリまでやって、駄目だったら言ってきな』みたいな助言をする上司とかボスって世の中多いんですよね。

少なくないとかじゃなくて、めちゃくちゃ多い。圧倒的。

 

 

でも、限界ギリギリまでやると、人間ってだいたい、法的にギリギリなことまで手を出すんですよね。ギリギリというかアウトなんですけどね。

もちろん、上司やボスは「そこまでしろと言ってない!」て被害者ぶるんですけど、Youの指示はそういう解釈されるんだよ、って話で。

 

 

外野から見て「この人ちょっと不安だな」と思った時点で、観察なり始めたほうがいいですよね。

ほら、ドラマに出てくる『できるボス』も、割とすぐすぐ部下を呼び出して「動きがないか見張れ」みたいなこと言うじゃないですか。

あの危機感を、部下の仕事内容に対しても持ってほしい。

 

ただ、本人が「今はがんばりたい!」みたいなことを思う時期やタイミングもあるので、そういうときは「じゃあ、頑張ろっか」と少し離れて様子みとけばいいです。

 

って話を以前、某企業で話したら、社長さんが「なるほど!では、私も『頑張ろっか』って社員に声かけて回りますね!」って真顔で言い出したので、曖昧に笑って去りました。

それはパワハラっつーんだ。