自分もそうであったけれど、得意なことをして、お金を稼ぐ。
あるいは、得意なことをして人様の役に立つ。
そういう時って、むやみやたらと「誰かの役に立ちたい」などと思う。
つまり、意識としては「誰の役にも立てていない」と思っている。
じゃあ、苦手なことをすればいいのか。
ブラック企業に入って、ニッコリ笑顔で「よろこんでー!」と月100時間残業すればいいのか。
そういうわけではない。
■『普通』だと自分が思ってることに挑戦することだ。
例えば「普通は挨拶をするものだ」と思うなら、挨拶をすればいい。
挨拶が無理でも、会釈するとかでもいい。
会釈が無理なら、挨拶すべき相手と会いそうな時に、道を変えたりせず、そのまま、会うようにするとか。
何か、挨拶につながることをすればいい。
自分の場合、これが「走ること」だった。
自分は脚があまり良くなくて、中学の頃ぐらいから長距離が走れなかった。
1km走れば、脚が悲鳴をあげる。
古い例えで言えば、ドラマ「ひとつ屋根の下」のラストで、ちい兄ちゃんが痛む脚を引きずりながら走る、っていうか歩くシーンがある。
あのちい兄ちゃんみたいになる、といえば知ってる人にはわかりやすいだろう。
だから、自分は一生走れないし、「走らなきゃ死ぬ」という場面になれば、誰よりも先に死ぬ。欠陥品だけれど、ほかに異常はないんだから文句を言うのは、お門違いだ。欠陥品なりに生きていこう。そう思っていた。
(ちなみに新しい土地に住む度にそこの病院に行き「異常はない」と診断されては、誰にも直せないのか、と失望した)
でも、そうではなかった。
ジムに通って、最初は脚への負担が少ない水泳をやっていたのだけれど、色々あってサイクリングマシンでペダルを漕いでる最中に「ペダルはいくら漕いでも脚が痛くならない」ということに気づいた。
そこで、ランニングマシンで走ってみて、走り方をトレーナーの人(元マラソン選手)に見てもらったら、「ちょっと走り方が重いですね」と言われた。
説明を聞いてみると、脚への負担がかかりやすい走り方をしている、ということだった。
『走ると脚が痛む。だから走れない』という自分がずっと抱えていた話は、なんのことはなく、ただの走り方の問題だった。
でも、中学や高校で体育の先生に見てもらっていたはずだけど、そんな指摘はされたことがなかった。多分、そこまで走り方に詳しい先生ではなかったからだろう。
それから思い切って、2km程度のマラソン大会にも出て最後まできちんと走りぬいた。
自分は欠陥品ではないかもしれない、と思えた瞬間だった。
それ以来、自分は、今まで「仕方ない」と思ってきたことを、片っ端から「直せるのではないか」と疑うようになり、最近は、休日がその関係でほとんど潰れている。
平日は遅くまで仕事があるし、休日は平日よりも早起きして予定を消化している。
でも、たぶん、35年の人生の中で、今が一番、胸を張って生きている。
■ということだったんだ、とウメハラさんの本を読んで思った。
自分はこの方、とても好きなんですよ。
勝ち続けるからすごい、というよりは、勝つための努力をし続けられるからすごい、という感じ。そういう意味で言えば、宮本武蔵っぽいなと思います。
あと、タイムリーにこんな記事もありました。
ここで言われてる「背筋を伸ばす」が、きっと『普通のこと』なんですよね。ちょっとこの女性の方は存じあげないのですが、この記事だけで、すごい方だな、と思いました。
gendai.ismedia.jp