メンタルヘルスの授業にて、講師の方が理論を説明する時に「この理論はフワフワ系なので、企業ウケはしません。あっちの方がガチガチ系なのでウケがいいです。フワフワ系はもっと時間に余裕のある時向けですね、場面によって使い分けてください」みたいな説明をしてまして。
その表現がしっくりくるので、面白い表現をするものだ、と感心してます。
んで、人に何かを伝えるお仕事の内、フワフワ系の最たるものである『小説家』を選んでしまった若者たちの物語がこちらになります。
■小説の神様
売れない作家が、売れっ子作家と出会って、なんやかんやする、という話です。
作品中、ずっと語られているのは「何のために小説を書くのか」ということ。
お金?チヤホヤ?勝敗?誰かのため?自分のため?
自分も、遠回り中ですが作家志望(一応)なので、「何のために」ということを読んでいて考えさせられました。
自分の場合は、そもそも、自分の生活に満足がいってない(現在進行形)ので、「何度でもやり直せるはず」と願ってますし、思ってます。
ただ、じゃあ、実際に、自分の書いた小説を読んで「そうだね、やり直せるね!」と非行少年が更生(って言い方嫌いですが)したり、50半ばのオッサンが「天文学やりたかった」つって大学に入るか、っていうと、そんなことはまずないわけです。
この辺の現実に及ぼす影響力がゆるいことを指してフワフワ系と自分は呼んでます。
そして、「小説の神様」の主人公もそのことを指摘します。
「だから書く意味なんてない!売れない、読まれない小説に存在意義はない」と。
■じゃあ、小説ってどういうものなんだ? 本当に無意味なのか?
という辺りが「小説の神様」の肝の部分です。
興味出たら、ぜひどうぞ。
■ここからは自分の話。
自分も、今は小説を書いてないです。
なぜ、書いてないのか。
『無責任』だと思ったからです。
以前、某作家さんから、こんな話を聞きました。
「作家志望の人にプロ作家が『諦めなければ夢は叶う』とか『書きたいものを書き続ければいつかは』なんて言うのは、無責任だ。それでたくさんの人が夢に潰された」
「好きなことなら続ければいい」なんてことを他人に軽々しく言えるのは、好きなことに対して才能があったからだ。でも、世の中の人のほとんどの人には、才能がない。才能がなくても好きなものにしがみついて、苦しみながら書いてる、と。
さて。
だとしたら、自分が小説に込めている「何度でもやり直せる」という気持ちは、無責任なのではなかろうか。
やり方も指示せず、方法も示唆せず、ヒントも出さず、ただ、声だけ大きくして「やり直せる!」と言って、誰がそれを信じるのだろうか。
また、それを信じた人が、本当に報われるのだろうか。
そう思ったら、足りない所が見えました。
自分には「何度でもやり直せる」と言い続けるだけの体力も、覚悟も、ノウハウも、けこう色んなものが足りてなかったです。
なので、今は勉強をしています。
■一種の自助グループ。
自分もあまり人に誇れる経歴などはございませんし、日陰か日向かで言えば、日陰の人間です。
でも、日陰は日陰で楽しく生きていけるんだぜー、ということを体現できたら、その時は無責任じゃないものを伝えられるのでは、と思ってます。
まー、「書けない言い訳」かもしれませんが。
■あと、アレだ。
小説について、話し合える相手がいなくなったのもデカイ。
だから「小説の神様」の環境は、ほんと羨ましい。
ラノベかよ!
人間書けてないぞ!