そらを自由に飛びたいな

おっさんのぼやきです。

親の英才教育。

 
三歳ごろまでに耳にした言語を「母語」という。
出生国の第一言語は「母国語」なので、それとはちょっと違う。
 
昔のドラマに、東北出身のエリート官僚が、キレた拍子に「なにすんだっぺ!」と訛り丸出しでしゃべってしまう、というシーンがあったけれど、あれも母語である。
とっさの瞬間につい出てしまう言葉。
 
では、言葉じゃなくてはいけないのか。別にそうでもない。
 
例えば、自分は鼻がきく。
だから、満員電車や、香水をつけている人が苦手なのだ。
 
これなんかは、赤子−乳幼児の期間を生魚に囲まれて過ごしたせいじゃなかろうか、と自分では思っている。
 
■色彩に囲まれて育てば色彩感覚が養われる。
 
音に囲まれて育てば耳が、光に囲まれて育てば目が養われる。
 
ここで重要なのは「相手をしてくれる誰かがいる」ということである。
別に親でなくとも良いし、親戚でも近所の人でも、保育園の保母さんでも問題ない。
 
言葉でもそのほかのことでも、豊かな表現に囲まれて育てば、感情表現豊かな子どもに育つ。
そして感情表現が豊かであることは、そのまま頭の良さにつながる。
 
よく笑う子を見て親が「この子は天才かもしれん」と思うのは、勘違いではない。その時点では確かに天才なのだ。
 
常用漢字と当用漢字。
 
の話を本で読んだ。
当時を知る日本語学者の嘆きが書かれていた。
その法律がどのように作用するのか、数十年後にどういう結果をもたらすのか。
 
予想できていたことであった、と締めくくってあり寒気がした。
 
■語彙の豊富さは、冷静さをもたらす。
 
「その現象を知っている」という安心感は、感情を落ち着かせ、論理を組み立てやすくさせる効果がある。
 
たとえ、直接は知らなくても、間接的に現象の外堀を埋めていくことで「きっとこういうことが起きているに違いない」と推測し「で、あれば、ああすれば解決するはずだ」と予想が立てられる。
 
取り入れる知識に制限などかけて良いことなど何もない。
 
■最近気づいた。
 
自分で自分を見て「なんて醜い生き物だろう」と思い悩む時間もまた、必要な時間なのだ。
決して無駄ではない。
 
まあ、無駄と言われると困るからそう思ってるだけかもしんないけど。
 
■今日の猫。
 
妊娠機能を失った猫たちは、何を思って日々を暮らすのだろうな。
 
感情豊かに生きてほしいもんだ。