そらを自由に飛びたいな

おっさんのぼやきです。

スポーツの大会が苦手な理由。

個人的にスポーツそのものは良いと思っている。

ただ、スポーツの大会となると、よろしくない学習効果を生むんじゃないか、と思ってて、率直にいって苦手です。

 

プロスポーツは興行なので、自分の感覚では劇団四季や歌手のライブと同じ枠です。

 

■前提として、大会は育成金額によって勝敗が決まる。

 

例えば、甲子園野球大会は、投手一人では勝ち抜けないと言われてる。

理由は、短期間で何度も試合が行われるため、投球による疲労が回復されないまま次の試合に出場することになり、本来の実力が発揮できずに負ける。

 

それを防ぐために、投手を二人、三人と育てないといけない。

しかし「我が校では10年に一人の逸材だ!」的な投手が運良く何度も発生するわけがない。

となると、運に関係なく、どこかで発生した優秀な投手を呼び集める必要がある。それにはお金が必要になる。

 

また、質の良い練習をするには、教育者自身がそれなりの学習や訓練をする必要があり、これもまた、お金がないとできない。

 

つまり、長期的に見ると、経済による競争となる。

 

■育成金額で決まるが、選手や観客にはそれが伝えられない。

 

昔の少年向けスポーツ漫画には「努力と根性で頑張る主人公チーム」のライバルとして、「経済力に支えられた先端科学を費やした金持ちチーム」が登場した。

そして、なんやかんやで、主人公チームは勝ち、「科学があっても努力や根性がなければ勝てない」的なオチになる。

 

でも、実際は逆で、科学が重視される。

勝つチームは、先端科学に支えられた効率的な練習法で練習し、休日もある。

負けたチームも、同様に先端科学をそれなりに利用する。

どちらも『先端科学』を利用するが、その利用できる質と量は経済力にかかってる。

 

ところが、勝敗の結果について「経済力の差ですね」とコメントする観客はほとんどいない。

中継時の解説者がそれとなくフォローはするけど、実況者は勝った負けたと大騒ぎするし、メディアもそれに乗っかる。

 

下手すると「頑張ったから勝てた」みたいな美談にしようとする。

つまり、「負けた人たちは頑張ってなかった」とする。もう少しマイルドに「負けた人たちも頑張ったけど及ばなかった」という言い方をする。

頑張が及ばなかったんだから、新聞で取り上げられなくても仕方ないし、話題にされなくても仕方ないですね、自己責任ですね、と。

 

心底くだらないと思う。

 

■スポーツの良さは、課題を見つけやすいことだ。

 

例えば、100m走は『100mをいかに速く走れるか』というスポーツだ。

 

100mを走ってタイムを測ると、現時点の足の速さが分かる。

そこから『いかに速く』を考えて、「腕の振りを大きくしてみたらどうだろか」「歩幅を意識して広げてみたら」などと仮説をたて、実際に試してみてタイムが縮んだ遅くなった、といった結果を確認し、更に試行錯誤をしていく。

 

別に現代で足が速かったからといって、役に立つ場面はそんなに無い。

ただ、「ルールに対して、現時点の状況を確認し、課題を発見し、仮説をたて、検証する」という一連の流れは、100m走以外の場面でも役に立つ。

 

サッカーや野球などのチームワークが必要とされるスポーツでは「現時点の好き嫌いは置いといて、勝利を目指す」という共通認識で集まる。

勝利を目指す過程で、他者の強みや弱みを客観的に確認しあい、他者に共感し、(その人なりの)「仲良くなかった人と信頼関係を作る方法」を見つけやすくする。

 

これがスポーツの効能だと思ってる。

他人と競争するのは「本気でやるための理由」で、本来は自分の中の課題と向き合うためにやるものだと思ってる。

 

■大会は、観客を喜ばせるだけのものだと思ってる。

 

主役は選手ではなく、観客。

選手が汗水垂らして走り回るのを、観客はジュース飲みながら応援するわけで。

 

オリンピックですら、金メダルをとっても選手の生活が楽になることはない。

 

引退後の生活のことは一切考慮されていないなんて、ほんとローマの奴隷剣士じゃないですか。

自由市民として自分の権利を買い戻して普通の人に戻っても、スポーツ以外やったことがないから働き口がない、とかね。

 

構造が歪んでるなあ、と毎度思います。