そらを自由に飛びたいな

おっさんのぼやきです。

知性の形。

「ヒトの知性を形にすれば、それはヒトと同じ形になる」ってな話がある。
例えば「目二つでの資格情報を集める必要性を感じたから目が二つなのである」ってな話で。
指が五本あるのも手足が二本ずつなのも立って歩いて、前足で物をつかむことが出来るのも、全部「そうするのが良い、と考えたから」という理屈。
つまり、人間の好奇心や生態、環境への順応の仕方などなどの知性はすべて人体で説明がつく、という。


また、その知性に対する体質の変化だけでは飽きたらず、人間は道具を用いて人体の機能を延長することを覚えた。
だから、道具もまた体である、と言える。
ブラインドタッチしてる人は、キーボードを手足の延長のように感じているから逆に「どのキーを押している」という認識がしにくい。
メガネを日常的にかけている人は、メガネ無しの生活なんて考えられない。
衣服もまた、日本においては着用しているのが当たり前であり「全裸で外出していいよ」と言われても、逆に抵抗感を覚える。露天風呂が何故喜ばれるかというと、全裸で出歩くという行為が非日常的でワンダーであるにもかかわらず「風呂だから」という免罪符が用意されているからである。効能がどうこう言うなら薬湯にでも浸かれば良いのだ。


つまり衣服のチョイスが多少おかしくとも、それはそれであなたの体のなのだから、堂々としていれば「まあそういう生き物か」と思われるものなのである。
「オシャレな服じゃないから恥ずかしい」というのは、服だけではなく自分の知性を貶める言動なので、言えば言うほど、生物的にダメな存在になっていく。
なんというか鈴虫が「俺の音色イマイチだし」と最初から鳴らさないようなものである。