■表に出せる日記。
表に出せない日記は、たぶん、書かない方がいいし、書きたくなる暮らしは避けた方がいいのだろう、と思う。
仕事の都合とかで、今は出せないけど、20,30年経てばもう時効じゃね?みたいなのは良いと思う。かつて1980年代にゲーム作った人たちのぶっちゃけトークを聞くの楽しい。
■というわけで、ブログを少し再開した。
数年前、基礎教養がまるで足りてないことを自覚したので、放送大学に入った。
ほんとは6,7年ぐらいかけて卒業しようと思ってたんだけど、先に飽きてしまった。
なので、一気に単位をとって、今年度中に卒業を目指すことにした。
んで、その忙しいのが一段落したので、ブログでも書くか、と再開してみた。
■自分の古い記事を読み返すの意外と楽しい。
10年前、2011年6月の自分は、婚活はじめて、小説を書いてた。
自分は割とよく忘れていく方だと思ってる。
映画も漫画も見終わったら、片っ端から忘れていく。
忘れちゃ困ることはメモしとくけど、見返すことはほとんどない。
なので、こういうブログを書いて残しておくのは、割と良いと思ってる。
■放送大学で、哲学に少し触れた。
難しくて半分も理解できた気はしない。
その中に、『死を遠ざけた結果、死を実感することは減り、カジュアルに「世界の終わり」を扱うようになった。しかし、実際は「世界の終わり」ではなく、自分が死んでも続いていく「世界の存続」を恐れているんじゃないだろうか』という話があって。
ちょっと考えたんですけどね。
自分が思うに。
自分が死んで、家族が死んで、知ってる人が誰もいなくなって、人類も滅亡して、なんなら地球が爆発して吹き飛んでしまっても、世界はそこに在る。
それは、生きてても死んでいても『そこに在った』という事実がある。
つまり『在った』ことを消さない限り、そこに在り続ける。
それって、割と良い話なのではないかな。
例えば、自分がジュースを買いに行く道ですら。
過去には、誰かが恋を語った場所かもしれないし、仇同士が殺し合いした場所かもしれないし、大きな木があってつばめが巣を作っていたかもしれない。
それはもう見えないし、知ることもできないんだけども。
自分が知っていようと知らなかろうと、それは在るし、その事実は、何万年経とうと残り続けるわけです。
ちょっとおもしろいな、と思いました。